隣の肉便器さん(期間限定ver) 35

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「なに、やってんすか?」と若者のような言い方。
「え?」
「出たり入ったり。向こうの部屋と行き来したり。こんな夜中になにをやっているんですか?」
 意外にもまともな言い方。酔いが醒めたのだろう。しかしまだクルマを運転して捕まったら酒気帯びではすまないアルコール臭だ。
「別に」
 そう言って僕は自分の部屋に平然と入り、しっかりカギをかけた。ピンポンされたりノックされたらどうしようと思いつつ、覗き穴から外を見ていたがオヤジがうちの前まで来ることはなく、ガチャッと隣りもドアを閉じる音がしたのでホッとした。
 このフロア、501が三L・DKの角部屋でもっとも広く、502から505は三L・DKだけどクローゼットなどの収納は狭くなり、506から509は二L・DKで面積はさらに狭くなる。このマンションに最初に来たとき美希は「貧乏人はエレベーターから遠いのね」と笑った。
 その点で、うちもナポリンも、そして隣りのオヤジも同じレベルの生活水準だと思うけど。
 ナポリンの部屋に入ってうちと相似形なのに一点違うのは一番端だから壁に一ヵ所、出窓があったこと。それだけで美希は「ちょっといいね」と思わずつぶやいていたから、格差ってのは面倒なものだ。
 四時間タイマーでぐっすり眠る。いや眠れないんじゃないかと思ったのに、ベッドに倒れ込んでいっきに深く寝てしまった。
 くたくただったのだ。
 なんか声がする。知らない声だ。美希の声もしている。騒がしい。いやだな、と思ったらスマホが四時間を知らせてくれた。
 寝ぼけたまま寝室を出ると、玄関から声がした。
「おかしいですよ、お宅ら」
「そちらにはご迷惑もおかけしていないでしょ? 関係ないでしょ?」
「ありますよ、同じマンションなんだもの。大問題ですよ」
 やめて欲しい。これ以上、話を複雑にしないで欲しい。登場人物を増やさないで欲しい。
 誰も僕の願いなど聞いてはくれない。
 朝ということもあるのか、もう酒臭くはなかったが、薄い髪が逆立っていて、血走った目に分厚いレンズのメガネをかけたおじさんは、すごく怒っている。
「どうしたんですか」
 寝ぼけたまま参戦すべきではないことはわかっているが、寝ていられない。頭も痛い。不愉快だ。
「あなたね」とおじさんは言う。「向こうの、えーと、最近越してきた館川さんとどういう関係?」とケンカ腰。
「お隣同士ですけど」
「じゃあね、あんたらね、うちともお隣同士だろ?」
 まあ、そうだ。
「それで一度でも、行き来とかしたことある?」
 あるわけないでしょう。お前なんて知らないし。
 なんであんたみたいなおっさんと、と美希も呟く。
「そもそもあの館川さんたちって、なんかおかしいでしょ?」
 オヤジの観察眼は鋭いのか鈍いのか。男でも高齢になるとおばさん化する例があると聞いたことがあるような気もするけど、僕の目の前にいるのは、おじさんの圧力とおばさんの好奇心とおしゃべり、さらに、生まれながらに持ち合わせているんじゃないかと思われるひがみというかなんか負の要素がまじって、薄い毛を逆立てているオヤジなのだ。
「知りませんよ、そんなこと」と思わず言っていた。
「あのね」とおじさんは、ひるまない。「風紀ってものがあるでしょ、風紀。あんたら若いから知らないかもしれないけど、世の中には秩序とか風紀ってものがあってね、このマンションの風紀が乱れるってことは、マンション全体の問題にもなりかねないわけだよ。わかる?」
 なんにも問題になっていないのに、問題にしようとしているんだ! 典型的な悪質クレーマーだ。あるいは暇な地方議会とかでありがちな、妙な正義感だ。
 広報部では年に何回か、クレーマーとの関係性について勉強をする機会があるんだけど、幸いにも僕が勤めている会社ではこれまでそういうケースはなくて、あっても、むしろさらにややこしい人たち(昔で言う総会屋とか得体の知れない人たち)なので、僕なんかでは処理できない案件だから、専門部門に任せるだけなので特に怖い目には遭っていない。
 知識って大事なときにまったく思い出せないものだ。
 こういうクレーマーにどう対応するのがいいんだっけ?
「なに、黙ってるんだよ」
 オヤジはすごい顔して睨む。「なんとか言えよ」
 あ、思い出した。間違っていたらゴメン。
「えーと、つまり、こういうことですか。向こうの館川さんはどうも怪しい人たちじゃないか。風紀を乱しているんじゃないか、と?」
「んんん」
 認めるべきだろうけど、認めると負けだと思っているから返事しない。
「そこに、私たち夫婦が出入りしているから、なんかおかしいぞ、と」
「んんん」
「なるほど。たしかに、夜中に行き来したのは妙に思われるかもしれませんが、確か、そちらも夜中にご帰宅されておりましたよね?」
「お、おれは自分の家に帰ってきたんだよ。なんの問題もない」
「ええ、そうです。お帰りになった。ということは、それほど遅い時間でもなかったんじゃないですか?」
「他人の家に行くにしてはおかしな時間だろ!」
「ああ、まあ、朝起きて夜寝る生活がスタンダードだったらそうですけど、どうも館川さんたちはそうではないようですね」
「だから、そこが、おかしいじゃないですか」
 議論にならない相手とは議論しない。
「おかしいとお感じなっているんですね。なるほど」
 ほかに言いようもないよね。
「いったい、なにをしてるんですか?」
 ああ、結局は好奇心。おばさん的好奇心。いや世の中のおばさんを敵に回したくないし、女性特有な現象と決めつけて女性を敵にも回す気持ちもない。あくまで目の前のこいつの特殊な癖。
「お菓子を届けたり、貰ったり。たわいもない話をしたり」
 美希も調子を合わせる。
「んんん」
 納得するわけがないよね。だけど、いま僕たちが絶対してはいけないことは、こいつをナポリンのいるあの部屋に入れてはいけないってことだ。いまのナポリンとあの部屋の状態は、基本的に、誰にも見せてはいけない。オサムにだってあのまま見せていいものか、迷う。
「いいですか?」とオヤジはトーンを変えた。「あなたたち、ピンポンしているけど、あちらの部屋の鍵をお持ちですよね?」
 名探偵登場かよ。いいところに気づいたね、ワトソン君。いや、ワトソンは探偵じゃないか。このハゲおやじをホームズやコナンと同列にしたくない。
「それ、おかしくないですか?」
 いまオサムが海外で拘束されていることはまだ詳しく報道はされていない。小さなニュースでは「邦人が拘束か」となっているだけで、オサムの名は出ていない。そんなことが知れたら、このおやじはさらに騒ぐかもしれない。
 ああ、僕は知らないのだ。この四時間の間に、美希がナポリンになにをして、いまどんな状態になっているのかを。
 外でタッタッタとスリッパを引きずるような音がして、オヤジがそっちを向いて、あんぐりと口を開いた。
 やばい。
 僕は廊下に出た。そこにナポリンがいた。髪はボサボサ。首輪をつけ全裸にガウンだけを羽織っていた。ただの全裸よりも白いガウンがよけいにエッチな感じ。胸の谷間も見えている。おへそも。その下は袖で隠している。
「あ、ごめんなさい」とオヤジに挨拶してから僕に「どうしたかなって思って……」と言う。
「次のが出たから」
 この状況をナポリンはわかっていない。彼女は寝ていない。ずっと責めを受け続けている。
「まだヒリヒリしてる。ふふふ」
 色っぽく笑うが目は細いまま。それがとってもエロく、怪しい。怪しんでいる人が見ればもはや決定的証拠級の怪しさ。
「ミキリン、ちゃんとやってくれてうれしかった」
 なまめかしくお礼を言われて、美希も戸惑う。



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